2026年9月12日(土)
太田秀春(おおたひではる)先生
(鹿児島国際大学副学長)
テーマ「島津義弘の異文化理解」

文禄・慶長の役、実際に戦闘が行われた期間は短い。朝鮮半島に渡った島津勢はどのような認識を持っていたのか。国元へ送ってほしいと依頼したモノに、茶、故郷の味(切大根、干飯、かつお、やさい等)。7年間で朝鮮半島に大量の人とモノが移動した。前近代最大の国際的な移動、島津領からも約2万人。秀吉の認識は、朝鮮を属国視(朝鮮国王を「閣下」、日本に「入朝」、方物を「下賜」)、明は文弱の国(「処女のごとき大明国」)、「天竺・南蛮」までも。伊達政宗は、渡海前は「満足、幸せ、御めでとう」と歓喜、渡海後は日本との違いに当惑(「よくもよくも日本に物ごと違申候」)。島津義弘の認識は、朝鮮での新領地を「迷惑」がり、朝鮮の軍事は軽視。古代から島津領の対外交流(貿易拠点、海外の情報取得)による。家臣は「思ひの外」の地の認識(和歌で知識としての理解が、夢にも思わぬ現実に直面)。
朝鮮での島津氏の動向。1593年6月から1597年月7までは講話交渉などで戦線は小康状態。釜山周辺に築城、長期滞在。明・朝鮮軍との戦闘は、文禄の役渡海(1592.5)から翌年6月、慶長の役開始(1597.7)から撤退(1598.11)。義弘には、釜山の予備知識があり、実際に朝鮮の広さを再認識。朝鮮の都市、ソウルの街並みに感嘆、王宮建築の壮大さ・華麗さは日本の内裏に勝ると。城壁の技術にも着目、技術力の違いを認識。島津勢が描いた正確な南原城の絵図(鹿児島県立図書館蔵)。戦のなかでも、島津勢の朝鮮への観察眼はフラット、日本との比較も公平・冷静に分析。当時の薩摩が外国に対して、どのような認識を持っていたかとも関係。城郭の活用(「泗川倭城」は朝鮮の城を活用)、異文化も有効と判断すれば積極的に用いる姿勢。朝鮮水軍の迅速さを評価「番船懸引取まはしなどの急なる事、日本船にもおとるましく候」。珍しい植物への関心、鉢植えにして薩摩へ、徳元寺跡(湧水町)出土の蓮、仙厳園の千葉蓮。動物への関心も、「朝鮮馬はなかなか乗れず候間、何としても日本馬を可被相渡候」。
まとめとして、〇異文化を見る視点、冷静に分析・理解(背景に事前の知識や情報が)。〇異文化への強い関心と積極性(動植物への興味、城郭の利用)。鹿児島の文化、鹿児島城の築城への影響も。我々が「異文化理解」を考える素材に。

