2026年4月18日(土)
原口泉(はらぐちいずみ) 先生
(志學館大学教授・鹿児島大学名誉教授)
テーマ「島津征伐と天下平定~豊臣兄弟VS島津4兄弟~」

元亀元年(1570)は「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」、朝倉攻めで袋のネズミとなった織田信長、しんがりを務めた藤吉郎の働きで、かろうじて都に戻り、将軍義昭が驚くくだり。1570年は島津にとっても重要な年。1600年の関ヶ原では「島津の退き口」。地方では、もっと熾烈な戦いが行われた。特に九州の戦国時代、島津本宗家・相州家島津(伊作島津)・薩州家島津が対抗関係、本宗家の弱体化、薩州島津家が貿易活動で強大に。しかし、新しく勃興してきた相州家島津の貴久が1526年、守護に。薩州家の横やりで守護職を奪い返され、貴久は鹿児島から逃亡、その後、父忠良と力を蓄え、薩州島津を加世田の別府城で攻略。石谷城主の町田久倍の助力で貴久は伊集院に入る。義弘の初陣は1554年の岩剣城の戦、島津氏が初めて組織的に鉄砲を使った戦。種子島時堯の火縄銃製造のエピソードや禰寝氏調略の経緯等を紹介。
1570年、島津義久が守護職を貴久から継承(1566年)継承したことを琉球国に知らせ、足利義昭へ15代将軍就任お祝いの使者を派遣、渋谷一族の祁答院良重が帰順。琉球渡海の朱印状の下、島津氏が力を蓄えた。1571年、貴久没。翌年、機に乗じた伊東氏と木崎原合戦、義弘の武勇を天下に。1574年、大隅の肝付兼続・兼亮、伊地知重興(垂水)を支配下に。1571年の錦江湾大海戦、禰寝・肝付・伊地知の連合軍に焼き尽くされた荒田八幡のエピソード、昭和2年の霧島丸遭難、ご自分のライフヒストリーやジェネレーションギャップ、福山の地名の由来になった廻城の戦い等々、時代を行きつ戻りつしながら、様々なエピソードを紹介。大河ドラマへの思惑も。
豊臣2兄弟と島津4兄弟との類似点、織田信長と浅井長政、信長の妹のお市が長政の正室。島津貴久と肝付兼続、貴久の姉の阿南(おなみ)が兼続の正室、お市と同じ役割。木崎原合戦で敗走した伊東氏は大友宗麟を頼る。1587年、大友氏は秀吉に援軍依頼、島津征伐。1587年はバテレン禁止令、博多の町割り(太閤町割り)も。義久の降伏が早すぎたは間違い、根白坂の戦、秀吉・秀長軍20万、義久・義弘軍6万。義久が考えていたのは和睦の結び方。1609年、徳川氏から許可を得て琉球侵攻。九州諸大名のなかで島津氏が生き残れたのは、政教分離(キリシタンにならなかった)、多方位外交(明とのパイプ維持)。来年は西郷隆盛生誕200年へ西郷一色に、しかし新納忠元生誕500年、調所広郷生誕250年。年々迫力が増していく講義に圧倒された。見事な滑舌、今年もまた大きな元気をいただいた。

