2025年11月22日(土)
島津義秀 先生(精戈神社宮司・加治木島津家当主)
テーマ「島津義弘の生涯」

講師は、島津義弘公を祭る精戈(くわしほこ)神社の宮司。義弘公は、加治木で晩年を過ごして亡くなった。孫が加治木島津家を継ぎ、その13代当主。丸に十字の家紋の由来紹介。初代忠久は、源頼朝の庶長子と伝えられ、丹後の局が摂津国の住吉大社で、雨のなか狐火に照らされて出産(毎年4月20日に生誕祭)。以後の島津家の足跡紹介。重物の一つ「時雨軍旗」(尚古集成館蔵)は、戦国時代に戦の折掲げた。めでたいことの前兆として降る雨「島津雨」の由来。1545年、15代貴久が島津家の分裂を一本化。
義弘公のプロフィール紹介。1535年に伊作亀丸城に生まれる。1554年岩剣城(現重富小)の戦いで初陣。1578年耳川の戦い(大友宗麟を撃破)。1587年根白坂の戦い(秀吉軍と和睦)。義弘公の朝鮮出兵2回。1597年泗川の合戦で10倍の敵勢に包囲された折、3匹の狐が敵を攪乱、狐は島津の守護神。1602年隠居、1619年加治木屋形にて没84歳。神号は精戈厳健雄命(くわしほこいづたけをのみこと)。祖父島津日新公が孫たち(島津4兄弟)を評した言葉、義弘公没後300年祭作成『島津義弘公伝』に掲載。義久「大将たるものは堅く胴を据え、漫(みだり)に動じない事」。義弘「仮令(たとえ)先きに敗れる事があっても後の閉じ目を肝要とする事」。「義久は三州の総大将としての材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を持って傑出し、歳久は始終の利害を察するの智略並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」。
義弘公は、園田清左衛門女子、広瀬夫人(実窓夫人)を寵愛。二人の馴れ初め紹介、朝鮮の役の最中、夫人にあてた手紙紹介。「今宵もそなたを夢に見参らせ候」「私の渡航の心遣いよりも、そなたは女子の旅だから明け暮れ気にかかっています。京都の伏見に着いたらすぐ便りをください」、便りをよこさない夫人に「何度送ってもあなたからの返事が来ない」と。気配りが実に細やか、子煩悩の側面も、「子どもの進退、行く先は、色々心配すると袖に涙もせき敢えぬ」。弱事も色々と書いている。19歳の初陣から関ヶ原の戦いまでの自伝に「当家は、代々仏神を崇い、先祖を敬し、武畧を修め、文教に勤しみ、忠節を加える。故を以て国代々隆盛なり。自今以後、嗣ぎて家を守るものは、愈々此の旨を守り、国家の行義を乱すべからず」(『御自記』より)。関ヶ原敵中突破直前に詠んだ和歌「急ぐなよまた急ぐなよ我が心 定まる風の吹かぬ限りは」。最後に「小敦盛」初段後半を薩摩琵琶弾奏、一節切(ひとよぎり)の吹奏。

