9月講座レポート

2023年9月9日(土) 
小林善仁(こばやしよしと)先生
(鹿児島大学法文学部准教授)
テーマ「鹿児島城と近世・近代の学校の立地―造士館と七高造士舘を中心に―」

 

    皆さんが知っていることの再確認と、なぜそこにあるのかを考える。令和5年は造士館創立250年の節目、今年3月には鹿児島城跡が国史跡指定に。専門は「歴史地理学」、研究テーマの一つが「景観変遷」、現在を出発点に、過去の地域の景観を考える。古地図があれば地域を空間的に把握できる。A3両面刷り4枚の資料配付。

 「鶴丸城」と「鹿児島城」。呼び分けは、都市としての歴史の長さゆえ。14世紀中ごろから明治廃藩まで居城は4か所(東福寺城→清水城→内城→鶴丸城)。県の報告書(2016)が示す鹿児島城(鶴丸城)の範囲は城山と山麓の約85ha、意外に広い。近世の城絵図に描かれた範囲と概ね一致。城の近くに、三の丸に相当する曲輪(藩施設と一門家や大身分の拝領屋敷)。照国神社の南、城山の登山口に大手口。大手は城の内外の区切り、鹿児島の場合は桝形(石垣で囲んだ四角の空間)、その構造物が中央公園南側の交差点付近。そこから西へ千石馬場、西田橋へ、出水筋が延びる。

1773年、島津重豪が建設した藩校造士館は、この桝形内側。以前は荒廃した「御下屋敷下櫨場」(火除地、防火帯)。便利な街中に広大な空閑地は稀少。明治4年「本学校」へ改称。城下と外城に「郷校」、卒業生を「本学校」へ入学。明治8年に「変則中学校」へ改称。翌年「英語学校」「准中学校」に分立。「郷校」を「小学校」へ改称。明治13年、男女の師範学校を統合「鹿児島師範学校」、明治43年に分立、男子は鹿児島郡西武田村、女子は旧師範学校校舎(山下町)。明治末期の「館馬場」(本丸・二の丸前の道)は学校街、「鹿児島尋常中学校」「鹿児島高等小学校」も。「山下町」の成立は明治12年、概ね近世鹿児島城の範囲。「県立鹿児島中学校」(名山堀に面した築地)を「鹿児島学校」(「磯」で開校、翌年に本丸跡へ)と統合して、明治17年本丸跡に「鹿児島県立中学造士館」。明治20年から同29年「鹿児島高等中学造士館」(官立高等中学校)、明治29年12月「鹿児島尋常中学造士館」(県管轄)、明治34年に第七高等学校造士館(官立)。昭和21年に第七高等学校へ改称。昭和24年、鹿児島大学発足とともに「文理学部」に。七高敷地・校舎は「一般教養部」として使用、「文理学部」は旧二高女敷地(現名山小)に所在。鹿児島城跡(本丸と二の丸の一部)は明治廃藩以後国有地、1980年に払い下げ。

    今後の課題として①造士館の成立は城下町の変容と関連させて検討②鹿児島で確認された城跡の近代的変容を他地域の事例と比較検討③大正期以降の学校立地の変遷も鹿児島市街地の都市構造の変化と密接に関連、3点を挙げられた。