2024年6月15日(土)
徳永和喜 先生
(西郷南洲顕彰館館長)
テーマ「薩摩貿易史の一齣-東アジア世界の中の薩摩-」
Ⅰ「中世島津氏の外交貿易史」、山川港の国際港化、異国渡海朱印状。Ⅱ「鎖国日本と東アジア世界」。
日本史の中の薩摩は貧しく、古い体質を維持してきたように語られてきたが、実際にはどうなのか、幾つかの新たなテーマから薩摩の歴史全体を構築する。対外交渉史からみた薩摩は「地果て、海始まる」、海洋に開けた地域。近世は石高制で考えられていたが、貿易・交流的視点を座標軸に加えると、薩摩や日本の歴史は大いに変わる。「その国の人びとはずっと前から八幡(バハン)といわれたある職業に携わっている。それはシナの沿海や諸地域へ略奪鹵獲に出かけていくことであって、そのためにはその力相応に、大きくはないが多数の船を準備するのである」(コスメ・デ・トルレスの日本に関する報告書)、十分な交易によって豊かな生活をしていた。
「阿久根、京泊、米ノ津、秋目、坊、予の在りし港山川、鹿児島、の方には別に次の諸港あり。根占、湊(内浦)、」(ジョルジ・アンワーレス日本報告書1547)。伊作島津家(忠良―貴久―義久・義弘・歳久・家久)が力を持ったのは、貿易による豊かな経済力が軍事力に。貴久の南蛮・唐貿易に対する期待は大きかった、「貿易の為め彼等(ポルトガル人)が予の国に来ることは喜ぶべし」。義久は山川を直轄地とした、「山川湊之儀、先規御料所歴然之条、不違其筋諸公役可有丁寧事。唐土・南蛮船着岸之時者、則於鹿児島被遂相談噯可然事」。家久は「鹿児島・冨隈・帖佐三方より御用物之外、一物もおさへをかるまじき事」、自由な貿易のための環境を整えた。京都や大阪の商人も南蛮船の生糸を求めて薩摩へ。徳川家康は「異国渡海朱印状」(東南アジアへの貿易船派遣許可状)を最も多く島津氏に出した。貴重な史料の数々が、展示史料貸借の苦労話を挟みながら、画面に映しだされた。薩摩に琉球征伐の御朱印が下る。薩摩は琉球を通した中国(宗主国)との貿易による利権を求めた。江戸初期の藩財政、「御借銀七千貫目(14万両)余御座候。琉球口より唐之才覚ならでは御返弁不罷成」。1639年鎖国、しかし幕府は、薩摩に「琉球口」からの「糸・巻物・薬種等」の貿易を許可、許可を得た密貿易。新潟港密貿易の実態として「薩州産物書付」等の紹介。贋金づくりも幕府が「琉球通宝」を許可した。調所広郷は500万両の借財を無利子250年賦返済。彼の功績は永く表に出なかったが「大工のことは大工の上手を呼んで聞け、商売向のことは商人に聞け、耕作の儀は百姓に聞け」という姿勢を持った人物。幕末の薩摩が興した数々の事業の財政的基盤、腑に落ちる話だった。