5月講座レポート

2025年5月17日(土) 
安川周作 先生(オフィス安川代表)
テーマ「日本の産業革命と薩摩」

 

講義の構成は「(1)鹿児島と島津家」「(2)天下泰平の時代」「(3)激動の到来」「(4)斉彬の危惧」「(5)島津久光と明治維新」「(6)薩摩主導の工業化と武士の反乱」。源頼朝の庶長子と伝えられる初代忠久、1185年に島津荘の管理者に任命。中国との貿易拠点、港に「唐湊」「唐人町」等、「唐」のつく地名が多い。16世紀の大航海時代、ヨーロッパともつながった。「鉄砲伝来」は、ヨーロッパでは「ジパング発見」。武士の時代の初めから終わりまで700年間、一貫して島津家が統治。結果、強い団結が築かれ、明治へ。薩摩・大隅・日向の三州を統一できた理由、32代当主島津修久氏談に依れば、①歴代当主が統率力と徳望を備えていたこと、②有能な一族・家臣団に恵まれたこと、③敵方へも寛容を示し味方に取り込んだこと、④戦略も無理なく手堅くしたこと(リアリスト)、⑤南九州を治めるため「鹿児島」を選択したこと(良港を押さえた)。

(2)について、以下を紹介。江戸時代の社会正義は「安定」、変化させない社会。鎖国を可能にした島津軍の強さ(泗川の戦い)。江戸時代の識字率は世界最高水準。江戸テクノロジーの最高峰「万年時計」。ペリーは日本の地図に驚き、日本製の時計にも感心。各藩の技術がわかる国絵図。明治の短期間の近代化は、江戸時代の底力が基盤。(3)について、250年続いた時代の終焉、西洋列強の産業革命による植民地獲得競争が原因。1853年、ペリー来航、幕府の狼狽。その30年前、薩摩は外国と銃撃戦(宝島に英捕鯨船員上陸、島役人と銃撃戦)、外圧に対する切迫感が幕府や他藩と全く違った。(4)(5)について、斉彬は日本を西洋列強の植民地にさせないため近代工業国家、富国強兵を目指した。そのため、①薩摩から工業化(「集成館事業」、全国のモデルに)、②人材育成、教育制度を改革(学習意欲喚起、学習環境整備、教育内容改定)、③人材登用。明治維新の設計図を描いたのは斉彬、実行したのは久光。「久光申されますには~幕府滅亡の源由は、~先ず驕慢と詐謀の四字より来たしたもの」(『史談会速記録第8輯』)。(6)について、「明治維新はすさまじいばかりの革命だった。死者や戦闘行為は少なかったが、変革の大きさではフランス革命やロシア革命を上回るほどの大革命といえる」(堺屋太一『歴史の使い方』)。司馬遼太郎は、「幕末、薩摩藩が主導力になって日本を植民地化される危機から救った」と。