4月講座レポート

2022年4月16日(土) 
原口泉(はらぐちいずみ)先生
(志學館大学教授・鹿児島大学名誉教授)
テーマ「鎌倉殿の13人と島津氏」

 

 

アクリル板越しに、颯爽とした姿、歯切れのいい元気な声。アフターコロナ、ビジネス客はおそらく戻らない、在宅勤務の時代。鹿児島に来てもらうには何が一番いいか。「2025年は大河ドラマ義弘になるんです」と笑いを誘う。地域に特別な魅力があるから、人はそこを訪れる。観光は経済政策、文化・芸術は今や農・工・商業と肩を並べる第4次産業、基幹産業の一つ。

花尾神社(鹿児島市)は、源頼朝と丹後局(たんごのつぼね)、局が帰依した僧永金(ようぎん)の三つの柱をまつる。丹後局は摂津国の住吉大社で、雨のなか狐火に照らされて、惟宗忠久(これむねのただひさ 薩摩藩祖)を出産。源頼朝の庶長子と伝えられる。花尾神社には局の墓があり、安産祈願参拝者も多い。慶応2年、喜界島に勧請されるほど。いちき串木野市の鍋ヶ城跡には惟宗廣言(これむねのひろこと 忠久の本当の父)の墓、鶴ケ丘神社もある。伊佐市大口曽木の広徳寺跡には源頼朝と比企能員(ひきのよしかず 丹後局の兄)と局の墓(供養塔)がある。『三国名勝図会』は、1843年五代秀堯による薩摩・大隅・日向の地理書、復刻して索引を作ったのが原口虎雄(原口泉の父)、そこには「谷隱山廣徳寺曽木村にあり、志布志大慈寺の末にして」の記述。本山は京都の臨済宗妙心寺、大慈寺の末は琉球にもある。無名の西郷隆盛が京都で活動できたのは、寺院のネットワーク、コネクトを使えばこそ。「頼朝公御石塔 當寺の境内にあり、大五輪の石塔にして東に向く、文字磨滅して源大居士の四字存す、又其左右に五輪塔あり、丹後局と比企判官能員なりといふ」と続く。頼朝の外戚が北条時政、二代将軍頼家の外戚が比企能員。外戚同士の勢力争いの結果、1203年比企氏の乱。島津忠久は守護職を全て没収される。1213年の和田義盛の乱で、北条方に味方したため還付された。源家将軍から執権政治(評定衆の合議)、北条得宗専制政治へ。

15世紀初めから、島津家では、藩祖島津忠久を源頼朝の庶長子と伝えてきた。徳川家康が源姓を称し、島津家でも源姓一色。重豪は鎌倉の頼朝の墓を改修、政治的パフォーマンスである。広徳寺の墓には「源頼朝公 源大居士塔」の文字、国境の大口に置かれているのは他国への政治効果を狙ったもの。花尾神社に奉納された扁額はすべて源姓。「なぜ大口に、誰が作ったのか、そういうことを考えるのが歴史」と結ばれた。