3月講座レポート

2022年3月19日(土) 
十五代 沈壽官(ちんじゅかん)先生
(陶芸家)
テーマ「陶房雑話」

 

 

    世界で一番古い焼き物は縄文土器。茶の湯の隆盛とともに、千利休らが「草庵の茶」を確立。朝鮮半島の質朴で飾り気のないおおらかな焼き物が好まれた。豊臣秀吉の朝鮮出兵、撤退の際、大名たちは多くの技術者を連れ帰った。樟脳は「サツマカンフル」と呼ばれ薩摩藩に大きな富をもたらした。養蜂や瓦製造技術、木綿の栽培、刺繍技術、土木測量、漢方医、そして陶芸の技術も入ってきた。

    薩摩に来た陶工たちは、島津公から朝鮮白磁、釉薬のかかった焼き物を求められた。17年かけて、シラス台地以外の場所、指宿の成川で白い粘土を見付け、出来上がった白い焼き物を藩主(義久)に献上、「まるで熊川(コモガイ 高麗茶碗の一種)のようだ」と称賛された。それまでは「火計(ヒバカリ)茶碗」(朝鮮の陶工が朝鮮から持参した土と釉薬を使い、火だけが鹿児島)。17年間の陶工の苦労に報いる意味で地名を冠した「薩摩焼」の名称。毛利藩では萩焼、鍋島藩は有田焼・唐津焼、藩主の好みに応じて、その領地の土を使っているが、ルーツは全て朝鮮。朝鮮や中国は王朝が変わると焼き物が変わる「否定と創造の文化」。日本は大陸からの文化を受け入れての「保存と活用の文化」。

薩摩には居留区として高麗町や唐湊、藩お抱えの通訳集団として朝鮮通詞・唐通詞・蘭通詞。国際的な感覚を持った大名、アジアに大きく開かれた偉大な海洋国家。苗代川焼「美山のクロモン」には文字が書かれている。陶工たちが読み書きをできたということ。薩摩藩は海外貿易の根っこを崩さないため、三つを要求。①苗字を変えてはいけない。②言葉を忘れてはいけない。③習俗の維持。18世紀の橘南谿『東西遊記』には、日本人になり切れていない当時の村人が描かれている。後に司馬遼太郎が『故郷忘じがたく候』を。

    アヘン戦争を機に薩摩は近代化に着手。磯地区にコンビナート(世界産業遺産)、富国強兵のための殖産興業。薩摩焼の陶工に、1700度に耐えるレンガで装飾性豊かな反射炉を注文。薩摩焼の海外デビューは1867年のパリ万国博。外国(朝鮮)の技術を移入し、薩摩の感性で育て上げて、幕末から明治にかけて海外へ出ていった。フランスでは、陶器は薩摩、磁器は伊万里。京薩摩、神戸薩摩、金沢薩摩等々、日本中にいろんな薩摩ができてきた。最後に、海外向けに放映された薩摩焼の行程紹介のビデオ視聴。そして、14代の言葉「回るろくろの動かぬ芯」、世の中の動きに幻惑されることなく、そこに居ることの大切さを紹介された。