2025年10月18日(土)
大山直幸 先生(前鹿児島市立美術館館長)
テーマ「夏目漱石と橋口五葉」」

以下のエピソードを、根拠を示しながら紹介。○漱石と五葉の交流は、五葉の長兄の貢を介したものだけでなく、中学の先輩、後輩の野間真綱や野村伝四もかかわった。〇「吾輩は猫である」は、漱石の周りに集まった弟子たちの交流の中から生まれ、その中に4人の鹿児島出身者がいた。〇「吾輩は猫である」は、漱石と五葉のデビュー作、五葉は「三四郎」の原口画伯のモデル。〇「坊ちゃん」の喧嘩のシーンは、鹿児島尋常中学(鶴丸高校の前身)の熊本での大げんかが生んだ。次いで、漱石と鹿児島の関わりを紹介。
五葉の誕生碑が鹿児島市立甲東中学校正門脇に。号は、庭の五葉松から。黒田清輝の遠戚。日本画、西洋画を学び東京美術学校に。日本最初のイラストレーター、浮世絵の研究者、新版画の第一人者、マルチタレント。漱石との出会いは、漱石と長兄貢の絵葉書による交流から。五葉は貢と同居。漱石から五葉への自筆水彩絵葉書、漱石と縁ができて本の装丁、その傍ら『ホトトギス』の絵やポスターも。明治37年、長兄貢の仲介、漱石の勧めで『ホトトギス』第8巻第1号に挿絵。翌年、第8巻第5号「吾輩ハ猫デアル」に挿絵。10月発行の『吾輩は猫である』(上篇)の装丁を行う。五葉は研究科生、漱石も一介の大学教員、二人一緒に世に出た。五葉は、「製本装幀と云ふ事は小さな事の様でも装飾的の形式に依って自己の芸術を表現する事が、自分に最も便利な表現方法だと経験してゐる」(『美術新法』第12巻第5号 畫報社)と記述。前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)の装丁を担当。
漱石は明治29年4月に五高に赴任、貢は30年に卒業。野間真綱が3年半ぐらい教えを乞うているので、この人がキーパーソン、五葉は一中(県立尋常中学から県尋常中学造士館に転学)の第2回卒業、先輩に野間がおり、漱石にかわいがられた野村伝四もいた。漱石の周りには貢もおり、五葉にとって居心地がよかったはず。五高時代からの交流、漱石の家で猪肉鍋を囲みながら、鹿児島弁が飛び交ったのでは。野村は「著者と装幀者と書生と混然一躰と云ふ気分」と記述。文士を目指す小宮豊隆・鈴木三重吉・森田草平等の弟子グループが羨ましがる雰囲気。明治29年、旧制五高の運動会に参加した鹿児島尋常中学と濟々黌の生徒の大げんかの状況を解説。最後に五葉の私家本を紹介。豊富な資料をもとに、歴史上の人物、その周辺人物に血肉が通った。
