2023年7月15日(土)
丹羽謙治(にわけんじ)先生
(鹿児島大学法文学部教授)
テーマ「島津斉宣と江戸の講談師伊東陵舎」
A3版14枚綴りの貴重な資料、パワーポイントを使った丁寧な説明。9代藩主斉宣は、重豪の長男、斉宣の長男が斉興、その息子が斉彬。重豪は、領内のインフラ整備や造士館設置、士風の改革、出版・編纂事業、他国から商人・芸人・能吏を招聘等、開化政策を行った。19世紀には他藩から多くが鹿児島を訪れ記録を残している。伊東陵舎もその一人。斉宣は1787年に藩主、実権は後見の重豪。重豪の派手な政策に対して、緊縮政策の斉宣。1808年に文化朋党事件(近思録崩れ)、翌年隠居。斉宣の書簡に「人君たる者は小事を慎むべし」、自らの為すべきことを慎重に考えた律儀で真面目なお殿様。
重豪の没後1835年、伊東陵舎は斉宣の求めに応じて、斉宣とほぼ同時期に東海道、山陽道、九州道を下って鹿児島へ。『日本庶民生活史料集成第9巻』に「陵舎は、参勤交代で帰国する藩主島津斉興の供廻に加わって、天保6年10月29日出水に宿泊」とある。「斉興」「供廻」は誤り。同じ誤りが権威ある文献に引き継がれている。『恵の旅笠』は、陵舎が道中の模様を記した紀行文、様々なスケッチや俳句を織り込んでいる。冒頭「何事のおはしますかはしらぬひのつくしそれのくになんしろしめすいといとやむことなきかたの御かたへ人より旅笠ひとつ給りぬ」、「天保6つといふ未のとし8月24日の日、明日ははや打ち出でなんと」と続く。「それのくに」は薩摩、「やむことなきかた」は斉宣。一方、斉宣の旅日記『湯治之記』には「葉月中の5日に首途して末の9日に高輪の館を辰のこくばかりにたち出る」と、陵舎に遅れて出立。斉宣は文人肌、ほかに天保2年『鎌倉御参詣御道之記』『文化2年春帰国紀行』の紀行文も。『恵の旅笠』と『湯治之記』両方に、伏見の館に郁姫(斉宣の娘、斉興の養女として摂関家筆頭の近衛家に嫁いだ)を招いた記述。陵舎は「信州川中島の軍」を講じ、鹿児島でも江戸の本場の芸を見せている。『かごしまぶり』は、陵舎が絵入りで風俗を細かく描いた鹿児島見聞記。天保6年11月2日、鹿児島到着から始まる。「翌3日は稲荷大明神祭禮にて、やぶさめ有之、見物に罷越候處、少将様御棧敷初、御一門方御棧敷有之」、「少将様」は斉彬。異風の琉球人もたくさんいたが、人々には珍しくもない様子、却って自分たち江戸者を観察したり笑ったりしたと。流鏑馬の由来や様子も描写。
斉宣の再評価、①藩主としての祈り(神社仏閣への和歌奉納)、②父重豪の三位昇任運動、島津家の家格上昇の働き、③文筆活動(国学者や文人との交流、紀行執筆)の観点を示し、もっと評価されていいのではと結ばれた。